ゴミ捨て

今朝、ゴミを出しに行った時思いついた。
「ゴミを出しに行ったが、先に誰かにゴミを出されていた。『これではゴミが出せない』と思い、先に出されていたゴミを回収し、自分のゴミを出した。回収したゴミは次回出さなければならない。しかし、次回も先に誰かがゴミを出していれば、それを回収してから、今回収したゴミを出さなければならない。それでは困るので、次回は一番にゴミを出そう」と言う物語なのか何なのか判らない妄想。
ここからふと思ったのだが、ニュースでしばしば問題になる、ゴミを溜め込む人。自分のゴミだけではなく、拾って来ては自宅の庭やらに保管しておく。やがて役所などともめて強制撤去されたりするが、彼、彼女らを見ているとどうも共通する部分がある気がする。彼らはどうも人付き合いが全くなくなっているように見受けられる。偏屈だから人付き合いがなくなったのか、人付き合いがなくなったから偏屈になったのかは定かではないけれど、社会から隔絶して必要とされていると感じられない自分の姿を、捨てられているゴミたちに無意識に投影しているのではないだろうか?
以前バラエティの企画でよゐこの浜口がゴミ屋敷を掃除しに行くと言う企画があった。始は誰も寄せ付けないゴミ屋敷のお婆さんも、浜口がめげずに通い、打ち解けて行くと片付ける事を了承してくれたと言う感動の内容だったが、もしその番組が作り物でないドキュメンタリーなのだったら、浜口が人としてコミニュケーションを取ったことによって、自分も社会から見捨てられていないと言う安心感を得て、お婆さんはゴミを収集することから解放されたのだろう。
もしそうならば、役所がゴミ屋敷の住人に差し向けるのは、ゴミを強制的に撤去する人間ではなく、彼らが社会とのつながりを取り戻すための人間ではないだろうか。